ドイツの写真を持って、小豆島に行った。「まきちゃんが、最終的に幸せになること目指してんのやったら、誰と何してもどこ行ってもええんちゃう」って苦笑いしてくれる友だちがいた。それでも寂しかった。でも秋の海は冷たかろうと思って耐えた。
※以下は覚え書き。
瀬戸内少女、さらちゃんの話。 
みほたんとシュークリームを食べた話
これから先18年のこと。
最終的に京都に住みたいという話。
ラクリッツというグミの味を愛する人について。
人権発表会の演劇について。
オーラがあるということについて。
ドイツの写真を持って、小豆島に行った。「まきちゃんが、最終的に幸せになること目指してんのやったら、誰と何してもどこ行ってもええんちゃう」って苦笑いしてくれる友だちがいた。それでも寂しかった。でも秋の海は冷たかろうと思って耐えた。
※以下は覚え書き。
瀬戸内少女、さらちゃんの話。 
みほたんとシュークリームを食べた話
これから先18年のこと。
最終的に京都に住みたいという話。
ラクリッツというグミの味を愛する人について。
人権発表会の演劇について。
オーラがあるということについて。
▼5日
堤防の上を端っこまで歩いてゆき、立ってアイスキャンディーを食べていたら、後ろから「姉さん、落ちたらいけませんよ」と海上保安庁の人が声をかけてくれた。「誰が立ってるのかと思いましたよ」と笑われた。アイスをくださったお父さんが犬を連れてくるところにまた行き会って、秋に私もデュッセルドルフへ行くという話をする。13時に喫茶集合で後片付けと思いきや、みんなは近くのカフェレストランへ昼食に行った。私は相伴はせずに、喫茶でひとり、椅子を並べて横になったりしていた。
15:45の船で、麗しのニーナと息子が帰った。息子はニーナに抱かれて、船の2階から顔を覗かせている。大きく口を動かしているので、耳を澄ますと、彼はジャンボフェリーの歌をうたっているのだった。みんなに手を振ってもらって、最初は元気に応えていたのに、寂しくなってしまったのか、ニーナの胸に顔をうずめてしまったのが最後までかわいかった。
夜、制作なかちゃんとモモちゃん、琢生さんと4人でしみじみ缶ビールをあけた。エリエス荘には大学の夏期集中講義のためにたくさん学生が来ていて、ざわざわと空気を揺るがしていた。
▼6日
喫茶の常連さおりさんがお出かけに連れていってくださる。酒造にゆき、草壁港でジェラートを食べながら、昔のエリエス荘に来ていたグアムの留学生たちの写真を見せていただく。高校生のさおりさんは、はつらつとして今と変わらぬ明るい印象だ。彼女の笑顔はきっと、この港町を明るく華やかにしていただろう。それから、中山の棚田と、農村歌舞伎の舞台のある場所まで行った。モモちゃんに棚田を見せてあげられてよかった。ちょうどそこへスクールバスが来て、さおりさんのお子さんが降りてきた。お子さんは私とモモちゃんの名前を覚えていてくれた。
さおりさんは、昨年、娘さんの学校のプリントで演劇の上演を知り、観に行ってファンになったという。二日目の夜、チケットが取れなくても小豆島高校までゆき、食堂で待っていた時の話を聞いた。食堂には父親と息子らしきふたりがいて、静かに遊んでいた。さおりさんはその様子をただ見ていたが、終演後に劇場だった体育館から出てきた「ちーちゃん」が、駆け寄ってきてその子どもを抱き上げたのだという。「その時にね、ああ、お母さんやったんや! ってわかったの。何にも言わずに、抱き上げたのを見た時にそれがわかった」とさおりさんはまっすぐな目をして、言った。
いつおさんの誕生日パーティをひらくので、写真家Pがはりきって餃子をつくり、みんなで皮をこねて肉を乗せ、次々と包んだ。私は冷蔵庫の野菜の組み合わせをいろいろ考えて、残り物でおかずをつくった。餃子がとてもおいしくて、その日炊いたお米はほとんど翌日に持ち越した。パーティが終わってから、ニーナの息子がやり残した花火を持って、琢生さんとモモちゃんと3人で外に出た。風が強くてなかなか火がつかないうえ、たった2、3日置いただけで花火はすっかり湿気ってしまっていた。なんとか火花を燃やし尽くし、最後は3人並んで、線香花火を海に散らして夏を終えた。
▼7日
昨夜、大学生たちの喧噪でお風呂時を逃したので、朝6時にエリエス荘を出て、ホテルの温泉まで往復40分ほど、モモちゃんとふたりで歩いた。7:30の船に乗るモモちゃんを見送って、私も荷造りを始めた。私は15:45の船に乗ることにしていた。
喫茶の隣のスタジオでは、デュッセルドルフに留学するみきちゃんの最後の絵画教室が開かれて、おもに島に住むおばあさん方がたくさん集まっていた。えみこさんが喫茶にひょいと顔を出し「餞別に」昔の着物でつくった巾着をくれた。「いつか形見にね」なんて笑って手を振って、えみこさんは絵画教室に戻っていった。お昼に、昨夜の餃子の残りを焼いて食べ、ぜんぶ片付けた。宅急便の営業所まで送ってもらう途中、かすかに歌う青年の声を助手席で聴いていた。船が来る間際にさおりさんが現れて、かよさん、あやさんたちと一緒に見送ってくれた。別れ際、この世でいちばん優しい抱擁で耳が触れ合った。新幹線で眠ってしまい、気がついたら東京駅で起こされ、かつて勤めた38階建てのオフィスビルを見上げて、ここも私のふるさとだと思って身体に愛が満ちるのがわかった。東京駅から帰るはめになったせいで胸に傷の残る町を電車で通り過ぎ、苦しさがせり上がってきても、今夜は大丈夫だった。演劇が終わっても未知の日常は続いていて、私たちの人生がもし演劇ではないとすれば、それは自分ではラストシーンを決めることができないということだ。終わっても終わっても、また始まる。終わっても終わっても、びっくりするような出来事が起きて笑いあう。私たちは、ラストシーンを選べない。
海を眺めて吸う煙草は、吸い終わるのがもったいなくて、いつもぎりぎりまで燃やしていた。いつだか劇作家が言っていたように、太陽系に生きているかぎり私たちはひとつの太陽の下で眠って目覚めて生きていて、私は今日もまた、島の日々を思い出しながら狭いキッチンでライターの火をつける。短くなっていく煙草の先、まぶたを閉じて坂手の海を見ながら、火の温度が指先に近づいてくるのを感じている。
つくりたてのカレーは味が若い、という話をしてから、毎日メンバーで味見をしては「この味は、まだ文学座の研修生になりたて」などと言い合っている。昼前に、味がいまいち決まっていない時は「ネクストシアターに入団したけれど、芽が出ていない感じだ」と言われ、チーズやジャムを入れて味の角がとれれば「年上の俳優に籠絡されて、芸が深まった」などと言われる。最終的に、夜のカレーは鍋にこげついたりして苦みが出るので、柄本明とか呼ばれたりすることもある。今朝仕込んだ40人分のカレーは、微調整無しで、一度で決まった。有望な若き俳優の名前をみんなで次々あげながら、スパイシーさと深みのバランスをかんがみ、染谷将太に決めた。彼の成長を、カレーの熟成具合になぞらえて、その日は一日楽しんだ。
喫茶でのパフォーマンス販売の最終日、客人は大入りで、飲みものや食べものを買うのと同じように、劇作家や俳優たちのパフォーマンスを購入しては、目の前で立ち上がる未知の情景に、目を見開いたり歓声をあげたり、していた。その中に、何度かすでにここの喫茶で見かけている女性が、今日も来てくれているのに気がついた。
彼女は池田から来ていて、昨年の小豆島高校での公演があまりにすばらしくて、惚れ込んでしまったのだという。公演の初日を見て、もうチケットはなかったけれどどうしても側でもう一度感じたくて高校に行き、食堂で待たせてもらったと言っていた。そこから、ままごとへの思いを持ち続け、今年も喫茶に通ってくれていたというわけである。島育ちの彼女は、エリエス荘が昔、グアムからの留学生との交流の場だったということを教えてくれた。小豆島とグアムで、交換留学が行われていて、英語の好きな子たちは、自転車でエリエス荘に行って、そこに滞在している同年代のグアムの子たちとおしゃべりを楽しんだのだという。もう20年も30年も前だけどね、とはにかんで微笑む彼女は、かわいらしい少女の顔に戻っていた。
昨日も今日も、東京から私の友人が島を訪ねてきてくれて、とても嬉しい。大学の先輩がだんなさんと、昔ワークショップでいっしょに批評を書いた高校生がお母さんと、来てくれたりしている。
喫茶の片付けをしてから、演劇公演の打ち上げの飲み会に少し出た。エリエス荘の食堂は、この夏いちばんのにぎわいだった。大潮の影響によるルート変更(さすが海沿いの町だ)があったらしく、瞬時の判断の積み重ねで演劇公演が回っていく様子を、目の当たりにした。たいへんにお世話になったもっしゃんとマリコさんのために、俳優たちが00:00開演の落語演劇を上演するのを、みんなで見せてもらった。瞬発力と技術の粋を極めた深夜公演だった。
喫煙所にひとりで立っていると、マリコさんが外に出てきた。落語すばらしかったですね、と声をかける。あの船、何時間も前からずっと沖に停泊しているんです、巡視船ですかね、何でしょうね、と訊いてみた。あれは客船やないかなあ、台風が近づいてくるとね、動けなくなるからこのあたりの静かな海でじっと嵐が去るのを待つのよ。内海湾にね、10隻くらい停まってるのは、すごく綺麗よ。そうしてマリコさんとしばらく暗い海を見ていた。風が強く、潮が高くなりはじめていた。雨はまだ降り出してはいなかった。
私のいとこの子は電車が大好きだけど、もしかして島の子どもは、電車じゃなくて船を好きになったりするのかな? という可能性に、港にジャンボフェリーが着いた瞬間、思い至った。でも、宇宙船や飛行機に憧れる子どももいるわけだし、普段見られない電車に恋いこがれる子がいても、いいなと思う。
夕方、三ノ宮からやってきたフェリーが入港してから、また出ていくまでをずっと見ていた。喫茶からは、客が徒歩で降りてくるところはあまり見えないから、いつもタラップから吐き出されて流れる車と、順番を待って吸い込まれてゆく車を眺める。束の間、地面に橋を架けてまたそれを丁寧にしまって、船は行ってしまう。タラップがしまわれるところがよく見えなかったので、ベランダの椅子の上に立った。誰かに、不審な女と思われるかもしれなかったけれど、船をよく見たい気持ちの方が強かった。それで、船尾には、船籍の旗が翻っていることに気がついた。日の丸。愛国主義にしろ、啓蒙活動にしろ、情熱のオリンピックにしろ、とかく煽動的な運動にもちいられる旗しかこのごろ見ていなかったから、純粋に「この船は日本の船」というしるしとしての意味、それ以上でもそれ以下でもない国旗を見て、ひとつまた気持ちが楽になった。
昔、防衛大学校にゼミの一環で行った時、同い年の学生たちが信号旗で交信しあうのを見た。旗ひとつひとつにアルファベットが割り振られており、それを読むことでどこの船か、航海の目的は何なのかがわかる。海の上では、船籍がわかった方がもちろん便利だ。危ないし、衝突は避けなければならない。命がけである。それが当たり前だ。何度も言うけれど、それ以上でもそれ以下でもない。考えているうちに、よぶんな苛立ちや嫌悪が削ぎおとされていく。煙草をくわえて、火をつける。フェリーが出港すると、風向きはいつも変わる。
暗くなってから、ぽつぽつ雨が降ってきた。明日の夜の公演に直撃するのは、避けられた。バーベキューが昨日でよかった。そのかわり、喫茶の売り上げは芳しくなかった。
盆明けの木曜日、急に暇になった。お昼に、このあたりに住むおばあさまを連れて訊ねてきてくれた孫がいた。おばあさまは、劇作家のファンなのだった。おばあさまに、カレーを、少しすくなめによそってさしあげる。ていねいに、おすわりになっている席まで運ぶ。カレーをたくさん召し上がってくださり、ああ、うれしい、とおっしゃって、劇作家とマスターの載っている雑誌を1冊買ってくださった。こんな素敵なもんが島に来とんのに見んなんて、あほやわ、と隣にいる孫にやら他の町の人にやら、おちゃめに言うのが可愛い。皆さん、あの幼稚園のところにいらしてねえ、帰ったら明かりが消えて、さびしゅうてかなしゅうてなあ。そうして話していくうちに、2年前に私が見た、小豆島でとある俳優がつくったお散歩演劇に登場した「かき餅」をつくってくれたのは、そのおばあさまだということがわかった。あの子、みさちゃんね、と嬉しそうに名前を覚えていてくださった。狭い町だから、人と人がつながるなんて珍しくない、ということが頭ではわかるくらいには、私はこの町になじんできた。でも、私の友だちでもある俳優に親切にしてくれたおばあさまの孫は、何も知らずに喫茶に遊びに来てくれたわけである。喫茶をひらかなければ、2年越しにつながることもなかった縁だったかもしれない。長く演劇のことを考えながら生きていると、こういうご褒美のような嬉しさに出会える。もっと長く生きてみたいと、おばあさまの身の上の話を聞いて思った。おばあさまが、あなたのお名前ここに書いて、と嬉しそうにおっしゃったので、雑誌の最後のページにふりがなを付けて大きく書いた。
午後のパフォーマンスの時間では、ゆりちゃんにダンスを踊ってもらった。私の名前の由来についてと、好きなおしょうゆの食べ方を話すことで、彼女が想像した私の暮らしを踊ってくれるという。私は、自分の苗字がぜんぜん好きではなくて、今でも嫌いなんだけれど苗字だから仕方なく名乗っている。だから、本当は人に私のことを、名前で呼んでほしい。それなのに、話は苗字のもとである父親のことにおよび、結局紐解いてみると、私の好きなおしょうゆの食べ方は父親の食べ方のくせと同じだった。ゆりちゃんが「あなたのお名前はどんな色ですか?」と訊いてくれたので、名前の字を順番に「ちょうどそのワンピースの色と、次の字はそのラインのオレンジがかった黄色、最後の字はそうだな、この表紙のこの色」と言って、テーブルの上に置かれていた雑誌を指差して教えた。そうしてゆりちゃんがつくったダンスは、あんまり人と目を合わせずに、口に手を当てたりしながら、どこか遠くを見て、最後は壁にゆっくり隠れて見えなくなってしまう振付けだった。それで、何だか私は泣いてしまったのだった。自分のことを、自分で思っているより他人は分かっているものなのだけれど、そのことが改めて嬉しくて、驚いた。分かってもらえて嬉しいと感じるぶんだけ、普段どれほど人に期待していないか、鈍感であるか、まざまざと見せつけられたようだった。もちろん信じているし、自分の思い込みほど当てにならないものはないと知っているけれど、ダンスを見て、よくよく思い知らされた。
制作スタッフのN嬢が、夕暮れ時に喫茶にやってきて、サザンオールスターズの『真夏の果実』を流し始めた。ラジオ番組のままごとを来週からしたいのだと言ってリハーサルをしている。海を知らない頃は、サザンオールスターズの良さがわからなかった。でも、海を見て聴くと、いかにサザンオールスターズが人に海を思い起こさせるかわかる。もはや、自分の中のイメージのせつなさが、海によるものなのかサザンオールスターズによるものなのか判別できなくなるほどだ。男は、短い恋の相手に「また逢えると言って欲しい」ものなのだろうか。私は、どんな夜も涙見せずに「もう逢えない」と言ってあげたい。
夜は満月だった。月の光で海は、鏡をこまかく砕いてばらまいたみたいにきらきら光っていた。Moon, Shine, Moonshiner と言葉遊びを口ずさむ。moonは月、shineは輝き。そしてmoonshinerは、アメリカの禁酒法時代の、密造酒を作る人という意味の言葉だそうだ。罪の味のする酒は、月をとびきり輝かせるということだろうか。私もできることなら、いつか酒が禁じられる世の中が来ても、太陽を受けて光る月を、もっと輝かせる人間になりたい。
5時半に起きて、早朝に墓参りをする人々を海の側から眺めていた。みんなが、山にある墓にのぼっていくのが見える。はじめは音楽を聞きながら見ていたけれど、お線香の匂いがするのでイヤホンを外すと、人々の話し声が海まで聞こえてくるのがわかった。日が高くなってから、けさお墓参り行ったんですか、といろんな人に聞いてみると「出かけるから昨日済ませた」とか「行ったよ、でも昔よりも人減ったわ」とか「親は行ってたけど僕は寝てた」とか、さまざまでおもしろかった。
盆踊りに行った。坂手の人が200人ほども、集まっていると教えてくれたのは谷さんだった。来月デュッセルドルフに行くという画家や、かつて下北沢で演劇をしていたという女性と話をした。今はねえ、こんなふうに若い人がいろんな表現をする方法があるからねえ、それはいいことだと思うわ。だけど、彼女の目はどこか遠くを見ていて、寂しげだった。いいことだと思いますか? ええ、ええ、いいことだとは、思うわ。
これだけの人々が、故郷たる坂手を愛しているのかと思うと目が回る。もちろん愛憎無関心、人それぞれあるのはわかる、わかるけど、少なくとも坂手という拠り所がここにはある。私はいつでも、故郷への愛着と客観の両方を獲得した人が好きだなと思う。Uターンして出身地で新たな仕事をしている友だちが「昔は地元に帰省しても、ああ帰ってきちゃったなあって思ってたけど、今は帰ってくるべきところに帰ってきたと思うわ」と、いつだか話していたのを思い出す。大切にすべき人を大切にできる人はそれだけで素晴らしく、そこに虚しさを感じていようが何だろうが、ともかくそれができるなら、それは価値のあることだ。私が何のことを言っているのか、わからない人はわからなくてよろしい。自分のことだ、と感じ入る人は全員、感じ入ればよろしい。ああ、いいなあ、と思う。いいなあ、というのは、私にはできない、できなかった、これからもできないかもしれないという不安で、 見よう見まねで坂手の盆踊りを踊りながらどんどんその気持ちが大きくなってきて、ああそうか私には故郷がないんだなと思った。子どものころ、盆踊りで太鼓を叩いたことも合いの手を入れたこともないし、そもそもお祭りに一緒に行くような友だちはいなかった。いたのかもしれないけれど忘れたならいなかったのと同じことだ。同じことじゃないことはわかっているけれどともかく、いない。故郷がないということは帰るところもないし、待っている人もいない。いいや、そんなことはないでしょう。わかるわかる、わかってるよ。大丈夫なんだよ。ただ誰と話していても、体の半分がいつも失われてるだけなんだ。 君はすぐ話をそらすね、と、けっきょく思い出す言葉は昔他人に言われたことばかりである。違う違う、そらしてるんじゃなくて、いろんなことをいっぺんに考えているの。そう答えたけど、自分の頭で考えたことなんかすぐ忘れる。別に嘘じゃないけれど、だってあんまりいろんなことがたくさん起きるから、心も体も背負うには重すぎて、だから上手に踊れない。
盆踊りはぜんぶで三回あって、三回目の踊りを踊るとくじがついたうちわがもらえる。だから三回目までしっかり踊りや、とおっちゃんに言われたのでそうした。それで、キッチンペーパーとゴミ袋が当たった。嬉しかった。おっちゃんが箱ティッシュの当たりうちわもくれた。嬉しい、嬉しい、これで涙も寂しくない。私の涙は私が知っていればいいし、理由も私だけがわかればいい。誰かが恋しくて泣くのではない。そんなことで泣いたりしないから大丈夫。キッチンペーパー、こんなにたくさんあるし、みんな優しいし、島で泣く理由なんかひとつもない。もう毎朝エントランスのソファで寝たりもしない。私、俳優じゃないんですよ、物書きなんです。説明しながら、昼間に喫茶で、劇作家が私だけにかたってくれた物語を思い出していた。新たな扉にぶつかった時、主人公は、それまで大切に持っていたペン先を外して錠前にねじ込んだ。扉の先に何があったかは、私と劇作家だけの秘密だ。
広場をあとにしてエリエス荘まで帰るのに、谷さんと一緒になった。谷さんと話しながら、彼が歩きスマホしながらポケモンにえさをやり、モンスターボールを投げて捕まえるのを横からじっと覗いていた。ポケモンはモンスターボールから逃げ出して「あっ、失敗や」と谷さんが言った。私は、半世紀先の盆に、自分の魂はどこに帰るんだろうなとじっと思っていた。谷さんがまたボールを投げる。今度はうまくいった。
ついに美大生から「もしかして、朝エントランスのソファで寝てませんか」と訊ねられた。「毛布かぶってるから顔わかんなくて、男の人かと思って最初びっくりしたんですけど、よく見たら」と言われたので、驚かせてごめんね、と謝った。美大生は、たまに朝の散歩に出るのだが、その時、ソファにいる私を見かけるらしかった。別に寝てはいないのだ。朝いちばんのフェリーがやってきたら、どうせアナウンスやらエンジン音やら、うるさくて眠ってはいられない。ただ死体みたいに横たわって、窓からひろく見える海を眺めて、あ、今人生でいちばん海のそばに寝ているかも、などとくだらないことを考えている。そういえば昔、ふとんを外に引っぱりだして月を見ながら眠ったことが一度だけあるなあ、とか。
昨日の、ダックスフントを連れた青年がカレーを食べに来てくれた。事務所がすぐそこなので、と彼は言った。12時ちょうどのお昼時は、喫茶はいつもぜんぜん混まない。「みんな、お昼には何か食べるはずなんですけどね」と青年が苦笑するので私は、島の皆さんはお弁当持っていらっしゃるのかしら? と返した。
青年は海運業なので、船に詳しかった。仕事の話や、フェリー船体の耐用年数、坂手港のフェリーが他の港と何が違うか、今後も航路を確保するための戦略などを次々わかりやすく教えてくれた。青年は小豆島育ちで、物心ついた時には、エリエス荘(青年はかつての名称、サイクリングセンターと呼ぶ)は廃墟に近かったという。ジャンボフェリーが就航したのは5年前で、それで坂手がいかに変わったか、しみじみと教えてくれた。のんびり育った彼も、高校時代には坂手の町に何も感じ入ることがなくなり、早く出て行くことばかり考えていたそうだ。子どもを育てるにはいい。でも、競争することを知らないままになるだろう、小学校も中学校も、高校も、どんどん統廃合されていくから、と彼は言う。彼は、島の暮らしにまつわる実感を言葉にするのが、とても上手だった。
もっしゃんがカレーを食べにきて、「あ」と海運業の青年をみとめ、あいさつを交わした。 顔見知りらしかった。生まれも育ちも坂手であれば当然であろう。結局、青年の昼休みいっぱい、客は彼ともっしゃんだけで、ゆっくり話せて楽しかった。マスターは彼が帰ったあと「何年も来てるけど彼には会ったことがなかったな」とつぶやいた。「長くいないと出会えない人、いるんだな」とも。
午後、男の人がひとりやってきて、りんごジュースを注文した。彼が財布を出しながら「弟から『ここの喫茶がおもしろいから行くといい』って言われたんですけど」と言ったので、私は顔をあげた。昼時の海運業の青年の、兄だった。似ていない、と思ったけれど、それは職種と住む場所の違いだろうか。 兄は久しぶりに、生まれ故郷の坂手に戻ってきているらしかった。彼はマスターとも喋って、話がだいぶ弾んだ様子で、しばらく店内の様子を見てから、じゃあ夕方にまた同級生と来ます、と言って帰っていった。その同級生は、マスターもよく知っている女性で、 小豆島で仕事をしている、醤油ソムリエ・編集者なのだと言う。
午後はしばらく忙しく、フェリーの出航の時間にあわせて店は混んだ。カレーも無事売り切れた。
数時間後、兄が醤油ソムリエ・編集者とともに店を再訪した。折よく、もっしゃんたちが、あさっての喫茶でのトークイベントのために機材を持ってきてくれたところだった。醤油ソムリエ・編集者はもっしゃんとも仕事を通じて知り合いで、喫茶には束の間、わっとおしゃべりの花が咲いた。
「もっしゃん、この子誰かわかる?」と彼女がいたずらっぽく、隣に座る彼を指すと、もっしゃんはしばらくぽかんと彼を見つめ「ああ」と、彼の名を口にした。「今どこにおるん」と懐かしそうに言う。「わし、あんたんとこの弟と昼間カレー食べよった」と言うと、兄はほそぼそと自分の近況を説明しはじめた。私は、今まで演劇や映画でしか知らなかった「故郷にひさびさに帰り、地元の人から声をかけられて少し居心地悪そうにしながらも照れと懐かしさの入り交じる複雑な表情で受け答えしている人」を、初めて見た。口に手を当て、ここに喫茶という名の劇場がつくられた意義を、あらためて思い起こしたりした。この喫茶で「上演」されるのは、劇団やマスターが意図したことだけではなくて、あくまで偶発的な出会い、副産物としてのドラマでも、あるのだった。
彼が店を出る時に、またお会いしましょう、と言うと、兄は、明日の朝港を出て今住んでいる場所へ帰るのだと言った。でもまあ、日本のどこでまたお目にかかるかわかりませんから、と言うと、確かにそれもそうですね、お互いこんな仕事ですしね、と言って握手してくれた。